先日配線が終わった真空管バッファーアンプ、アルミケースのキズ防止のシートを剥がして、ボリュームのツマミを付けて、ようやく本来の姿が完成。子供たちがもう使わなくなった「iPod Shuffle」をつないで、コンパクトなBGMシステムが出来上がりました。



本来は主要なパーツを組む前に保護シートは剥がすものですが、ピカピカのアルミケースにキズが付くのが嫌で、完成後に部品類のネジをいったん緩めてから剥がせばいいと思っていたのですが、考えてみたらコンデンサーやら抵抗やらが所狭しと並んでいる場所に、ボックスレンチやらドライバーやらが自由に入るワケがありません。小学生でもわかることです。何とか見た目はそこそこ綺麗にしましたが、こういう「詰め」が甘いトコロは昔からでした・・・


小学生の頃は、プラモデルを作るときに接着剤を大量に使って、それが至るところにはみだしたままでしたし、仕上げのデカールなんかもいい加減。中学の技術の実習では、やはり劣等生でしたので、見栄えのいい作品を作ったことがありませんでした。そんな少年時代のトラウマが、「今ならこんな作品も作れるんだぞ」という誇示をすることで誰かが褒めてくれるんじゃあないか・・・なんて考えていて、この歳になってモノ作りに没頭するのかもしれません。

ところで、今の小学生・中学生の、この手の「モノ作り」の実習にはちょっと疑問を感じています。ほとんどのモノが「キット」になっていて、マニュアル通りに組み上げれば終わりなのです。中学校の文化祭に行って、子供が作った本棚を見てみると、クラス全員が同じものを作ってあって、そしてほとんど同じ出来栄え。工作がうまくできない子供への配慮かもしれませんが、これでは子供の「考えるチカラ」なんてつくはずがありませんし、そもそもこんな内容のキットを組み上げるために、本格的な大工道具を購入させられる意味はあるのかな?などとも思ってしまいます。

私たちの頃は、「折りたたみイス」というお題が出たら、それのデザインを考えるところからはじめて、木材の切り出しはもちろん、余裕のあるものは塗装までして、それこそ千差万別な作品が仕上がったものです。だからといって、ヘタクソな作品しか作れなかった者が(ワタシです)いじけるようなこともなかったですし、そんな十人十色の作品を眺めながら友達同士でからかい合う時間も楽しいものでした。

もしからしたら技術工作が飛び抜けて上手な子がいて、その作品が皆に褒められことで、その子は将来、家具屋さんを目指すかもしれません。奇抜なデザインを褒められた子がいたら、その子はインダストリアル・デザイナーを目指すかもしれません。そんな可能性の芽を育ててくれる実習を受けることはできないものでしょうか。運動会で順番を付けなかったり、技術実習の成果を平均化することで、本当に子供たちは嬉しいのかな?と思います。

今の子供たちは「国語・算数・理科・社会・英語」という、大人が勝手に決めたモノサシで評価をされています。それはきっと社会人になるまで続いていくことでしょう。こんなにもいろんな文化があって、いろんな人生があって、いろんな考えがある。実社会はすごい種類の職業であふれかえっているのです。その中を生きて行くのに、たった5教科の勉強の成果で人間を計れるワケがないではないですか。「かけっこ」や「モノ作り」やいろんなもので子供を計ってあげるモノサシは、どうしてなくなっていってしまうのでしょう。

あなたの人生を計るモノサシは何ですか?